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いまやコスメと育児の話ばかりよ

来月30歳になるので、人生を振り返ってみた

来月30歳になるので、人生を振り返ってみた。
自分以外の方が読んでも楽しくないと思う。

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↑特徴はないが、似ていると思う。

0-3歳

大阪の某市にて誕生。
家族は両親と兄2人、祖母(母方)。
「人を愛し、人から愛されるように」という重大な使命を込められた名前を付けられる。
一番最初に話した言葉は「ジュース」だったらしい。
一番古い記憶は玄関先で壊れたオモチャが破棄されるのが嫌で泣いたこと。

3-5歳

幼稚園入園を前に富山県に転居。
日本舞踊とスキーを始める。
利発なお子様だったらしく、卒園式で挨拶を言う園児代表の何人かのうちの1人に選ばれたものの、前日に水疱瘡にかかって欠席。

6-11歳

小学校は同じ幼稚園から通う子も多く、また未だに連絡を取り合う親友も1年生からできた。
のびのびと育ち、学級委員とかもやっちゃう。
しかしこの時からすでに算数ができず、体育も出来なかった(自覚なかった)。
このころからもうスヌーピーがすき。
小学校5年を最後に大阪(生まれた家)に転居が決定。
中学校から入るとギャップが大きいからと親の配慮だったが、正直富山の小学校で卒業したかったので大号泣。

12歳

カルチャーショックで性格と考え方が変わった年。
富山から大阪の高級住宅地にある小学校に転校。
都会なのにマズい給食に大ショックを受け、富山に帰りたくなる日々。
さらに0-157が流行り、温かいフルーツポンチを食べさせられたあの屈辱は忘れない。ならメニューに入れるな。
富山にはなかった受験生戦争、それゆえのストレスで歪む子ども。学級崩壊を目の当たりにする。
インターネットはこのとき。デビューはチャットだった。
ホームページも運用作成、ブログも書き始めた。
日本舞踊も継続し、天才少女だったため大阪のとある大きい舞台にて「櫓のお七」を踊る。

13-15歳

そのまま地元の中学校進学。
さらに強烈なキャラクターを持つ子ども多数で、いえ私なんかが学級委員とかやれません、もう整備委員とかでいいですキャラに。
大阪すげぇ。
暇だったし楽そうという理由コンピューター部に入り、ブラインドタッチだけマスターする。
中学校の時点ですでに「三谷さんは季節の変わり目弱いねぇ」と担任に心配される。
数学ができなさすぎて、志望校のレベルを下げる。
大阪は基本、私立1校、公立1校しか受験できないため、私立に行きたくない私は挑戦より保守を取った。
15の誕生日前に、スペシャスガシカオがゲストに出ている番組をたまたま見る。そこから沼に。
すでにここでアニヲタだった。夢は声優。もう役満

16-18歳

無事公立高校入学。
1年、クラスにも恵まれ、楽しい女子高生生活を満喫。
Skoop On Somebody堂島孝平と出会い、沼へ。
演劇部に入部、最後は部長だった。
担任に騙されてボランティア部にも入部。副部長もした。
ここで受験のために休んでいた日舞、先生がなんとお亡くなりになったため私の日舞人生も終わる。


2年のクラスが運動部ばかりでそのノリについていけず、心が折れる
2年の秋ぐらいから受験を考え、尊敬する国語教師の影響を受けて「社会学部」に行きたいと決める。
しかしストレスからか自律神経系がやられはじめ、季節の変わり目は3日以上休み、雨の日は本当動けなくなる。
体育の出席点がギリギリすぎて単位を落としそうになる。
受験はなんとか年内に公募推薦で受かっていた大学へ。
ほかの受験校はセンター前に重度のぎっくり腰になり、どこも全滅。
このとき、3年のクラスの友人は恵まれて(病気の同級生がいたため、それのフォローできる人材を集めたら私の仲のいい友人にするしかなかった学校側の苦労が見えたが)、いまだに皆で集まる。

19-22歳

大学生。
大阪から滋賀県のキャンパスに通うという日々。今思うとスゴイ。
サークルは友人につれられ、またボランティアサークルに、いまの夫とここで出会う。
ネット友達に椿屋四重奏を教えてもらい、沼へ。
2年後期から専門授業が増え楽しくなり、そこでジャズや水木しげると出会う。
ここで統計学、オフィス系ソフトの使い方全般、インタビュー調査、メディアリテラシーについて学んで「社会調査士」の資格を取得。
ついでに車の免許も大学4年で取得。


アルバイトはイベントスタッフとデータ入力、テレアポ(といっても受信のみ)。
イベントスタッフでおそらく社交性も学んだため、協調性はないけど社会で生きていけるようになる。
データ入力で入ったはずのアルバイトは騙されてテレアポもやった。ここで社会性を学ぶ。
ちなみに歯科のバイトは1週間で逃げ出した。

ハワイに知り合いが住んでいるため、大学在学中に3回ハワイに行った。
卒業旅行はトルコ。
コミケも友人の店番で何回か参加。
カウントダウンフェスも行った。
一番ライブに行った時期。
リア充


就活は「体力的に続かないだろうから、早めにやって早めに終わろう」と、将来より健康第一。
20歳で突発性難聴になったこともあったため。
兄2人がそうだったので、文系のくせにSEを目指すべく内々定を一番最初に出してくれた会社に決める。
単位を一度も落とさずむしろ「優秀な生徒でさらに選考して合格したら授業料免除にするで」っていう大学内のコンペの候補者にもなったぐらいなのでほめて欲しい(選考落ちたけど)。

卒論は「ペットと人間」。人間はどうして人間以外、言葉のコミュニケーションがとれない動物をパートナーとして選ぶのであろうか。
私は動物に「さわれない」人間なので、不思議だったのである。


このように、大学生活の説明が長いのはとにかく楽しかったから、の一言だ。
ここで培われたものはいまの自分に全部役立っている。
将来自分に子どもができたら、絶対大学へ行けと言う。そのためには学資保険も絶対に入る。

23-25歳

まさかのリーマン・ショック
それゆえ、理系でもなんでもない素人の新入社員の私は8月ぐらいまで社内ニートとなる。
その後、無事派遣先(派遣系のSE会社だったのです)に行くが、ストレスによる体調不良が顕著に。
多分COBOLというか、JCLの書きすぎだったんだと思う(嘘)。
入社して一番活躍したのは忘年会や社内ボーリング大会の司会進行という業務に関係のないところ。
働き始めて2年しない間に「適応障害」の診断、即チームから撤退。
実はこのとき、家もゴタゴタ、親族や身内に病気や介護者が続々と出てきたのも大きかった。
1年ほどして、調子がいい時にライター業を始める。
最初は商品PRとか、リライトとか。
また美容ブログ全盛期だったため、憧れてコスメブログを始める。
WEBコラムを書いてお金をもらい始める。

25-26歳

毎日布団の中で過ごす日々。どうしようもないので休職期間満了に伴い退社。
両親が大阪から富山で老後を暮らすことを決めたため、私も富山についていくことにした。
ということで大阪からも撤退。
富山でのんびりと暮らした。それがよかったのかも。
ネットでただ漫画とコスメについてだけ話すUST配信などやったりもした。
ある日、記事を書かせてもらった会社からスカウトメールが飛んできたので、医師に就労許可を貰って名古屋で就職する決心をする。

27-28歳

初一人暮らし。3ヶ月だけレオパレスに住んで、その後親戚のコネでアパートへ。
久々の就労だったし、前の会社と違いすぎてドギマギしながら仕事をする。
ひどい花粉症発症。
最初の1年は変わりなく過ごしていたが、その1年目の終わりからアホみたいに忙しくなる。
後輩も一気にできて、なにがなんだかわからなくなる。
気がついたらいろんな仕事やってて、失敗しまくって迷惑をかけまくる。
ついでに結婚も決めたのでもっと忙しくなる。
途中記憶がない。
一人コーヒーを飲んでデスクで「この仕事でこの媒体が有名になったときには『日経WOMAN』のインタビューに応じるんだ……」と訳の分からないことを呟いていたのは覚えてる。

29-

新婚旅行でアラスカに行く。
春に体からSOSが出てきたのとまぁいろいろあって退社。
そしてネット人生もずっと続けていたブログも閉鎖し、ハンドルネームを変えたし、Twitterのアカウントも変更。
第一次インターネット人生終了とする。
のんびりと専業主婦をするが、結構体のガタの方と老化でのせいでダラダラしている。
一応片手間程度にライター業はどこかでやっている。
ずっと欲しかった資格があるので、それの勉強のために講座を申込む。
そこから人間関係がまた広がったので、あとは検定に受かるのみ。


書き終えた

だいたい3500文字で29年でした。
転居を繰り返すと言っても大阪と富山の間だけだし、地元の公立からフツーの大学行っただけだし、会社も体調不良で辞めただけだし、まぁフツーだわね。
今後もまぁ、フツーなんでしょう。
いやね、勘違いするんですよ。
WEBライターやっててそこから運営に入った! とか、ブログやTwitter通じて仕事の依頼くる! とか、病気で退職した経験が! 私がアドバイスを! とか。
ちょっと、自分が「特別」に思えちゃうとき、あるんですよね。
いやいや、あんたフツーだから、と。
ただのヲタク気質で広く浅くいろんなことに首突っ込むのが好きなだけで知識が豊富なわけでもないんだから、謙虚に生きなさいと。
この年表どこみても、ほんとフツーだから、と。


昔から「夢を」「目標を」というタイプではなく、唯一それに当てはまるのは「社会調査士」の資格取ったぐらいでしょうか。
流れ流れてここにいる感じですが、その流れが結果的にはすごく全部「よかった」ので、この生き方が私には合ってるのでしょうね。


うむ、有意義な振り返りであった。
これで安心して30を迎えられるであろう。